彼女は私とすごくすごく本質の部分が似ていて、その本質の部分の
彼女のコアな部分は、「自由」でした。
まさに、彼女の人生は、他の人のために生きるのではなく、
自分のために生きる。誰かのために何かをする人ではない。
好きなことだけやって、どんどん自分の本質が開花する女性。
これ、私と全く同じ。
そして、彼女もまた美と生き方の部分で他の人の本質を開くのを
お手伝いしているお方です。愛とスキルは半端ないお方で、
自分の師匠もさえセッションして本質を開かせたお方。
よかったら遊びに行ってみてね。
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さて、上記の事と関係があるのですが、ここ最近一番反響があった記事、
それは「誰かのために生きない」の記事。
その日の読者登録、数えていませんが何十件も在り、
そのBlogの記事への感想も共に頂戴いたしました。
しかし、中にはもちろん「はぁ〜?」なお方や
理解しがたいお方もいらっしゃったようですので、
今日の記事は、「誰かのために生きない」の
より一歩深めた説明をしたいと思います。
「誰かのために生きない」とは、
一言で本質を言えば、コーチングの基本倫理でもある、
「主体的に生きる」ということ。
誰かのために生きない、というのは、誰かのために何かをしない、
誰かに親切にしないとか、誰かに利他的な行動をあらわさない、
という極端なことを言っているのではなくて......
「誰かのために何かをしたい」という
自分の意志を優先させている、
つまり、自分のために選択した結果、
誰かに善を行う、誰かの為に自己を差し出す、
誰かのために陰徳を行っていることを理解している、と言う意味です。
つまり、誰かのためにそれらをやっているのではなくて、
すべての選択は主体的に選んでいる自分のためにやっている、
という自覚のもと、生きる、ということなのです。
結果的に誰かのためになっていたとしても、
その行為は自分のためにやっている。
そうなると、見返りなんていらなくなるのです。
やりたいからやっているだけですから、その善意や善行は
極論、その人に気づかれなくたっていいですよね?
しかし、相手の喜ぶ顔も見たいし、相手に感謝されたらうれしい。
だから、やっているのでしょうが、それは相手のためではなくて、
相手の喜ぶ顔を見たい、という自分の欲求を満たしている事なので、
結果的には自分のためにやっている、ということ。
誰かのために何かをする、ってうれしいし、美しいし、
高尚だし、やっている時は気持ちもいい事でしょう。
それを「誰かのため」だなんて上から目線で思わないこと、
ということが要点でした。
そして、その記事に共感された方たちの傾向も見えたのですが、
自分の意思を殺して誰かのためにがんばってきて疲れた人、
そして、もう一つのタイプは、スピリチュアルなどの精神世界のお方。
残りの人生は他の人へのお返しの人生、と決めている方もいます。
私の仲のいい友人の中でも、そのような利他的な精神の女性は多いです。
しかし、彼女たちの前提もまたこうです。
自分が満たされていること、
まず、自分を満たしてからの話。
ある人にとっては、物質的なことかもしれず、
ある人にとっては、精神的なことかもしれません。
自分が欠乏感のまま、誰かを満たして、その方の喜びが
自分の欠乏感を埋める、というカタチになりますと、
これを共依存と言います。
満たしたい人と満たされたい人。
それで関係性が成立。
苦しいのです。依存関係は。重いし。
満たしたい人は満たしてあげることで自分が満たされる。
しかし、相手があなたを必要としなかったり、喜ばなかったりした時に、
こう思うのです。「今までやってあげていたのに....」と。
実は私も他の人のために身を粉にして、
自分を差し出していたときがありました。
感謝される時は、それなりに満たされたりしましたが、
受ける側がそれを当たり前に思い、
感謝されなくなった時にこう思うのです。
「なんで今までやってあげていたのに.... 」
私たちが利他的な選択をした時には、
それは結果的に利他的だとしても、それは
自分の欲求を満たしたくてやっている、と自覚すると
すごい楽になりますし、とても心地がいいもの。
自分の人生、他人の人生。
誰もが人の目を気にせず、自分の人生を歩みたいと思うことでしょう。
嫌われても、時々非難されても、やりたいことをやった人生のほうが、
最期の時を迎えた時に、笑って「やりたいこと、全部やれたーー!
我が人生に悔い無し」と言ってあちらの世界に戻って行きたいものです。
誰のためでもない、自分の人生、楽しんで!
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