今日は、息抜き記事。
ちょっと気づいたことがあったので、ブログに書こうと思います。
以前にもブログに書いたことがあったと思うのですが、
私、両親に褒められた記憶が一回もないです。
ほら、よく子育ては、褒めて子供の能力を伸ばす、ってゆーじゃないですか。
それを思うと、大人になってから、親が私を褒めてくれなかったこと、
恨んだこともありました。メンタルが崩れていた20代後半から30代前半。
だから、私の自己評価はこんなに低いのか?と。親のせいにしたこともあり。
ところが、最近では褒められなかったことがよいことだった、
ということに気づいたのです。というのは、褒められる、というのは、
言葉を変えて言えば、”評価”を受けること。
つまり、私は子供のころは、評価を受けずに育った、ということ。
これが後々どれだけ大切なことだったかが分かったのは、ここ最近のことでした。
ま、ちょっとこの事実を置いといてなのですが、
私、褒められなかった子供ですが、悪いことをしたときだけ、叱られる、
という育てられ方でした。母は私をちょっとやそっとのことでは叱りませんでした。
今思えば、本当に寛容な親だったのです。
私はおねしょをする子供でした(笑)
あるときなど、毎晩していた時もあったと記憶しています。
しかし、そのことで、母が私を叱ったことは一度もありませんでした。
「お尻、冷たかったね…」と言って、黙ってシーツを変えてくれるような母でした。
小さい時に、おかずを盛った器を間違ってひっくり返しても、
家の中の、飾り物を落として壊しても、怒られた記憶がありません。
幼少時代、褒められもしなかったけど、叱れもしなかったわけです。
ただし、善悪の基準は言葉で、感情を入れず、母は教える人でした。
そんな風に、評価がない環境で育つとどんな子供が
できあがると思いますか?今振り返ると「人の目を全く気にしない」
そんな子供の一丁出来上がり!なわけなんですよ。
ま、極端な方向に行ってしまえば、社会のルールを無視するような
人間も出来上がる可能性もありますが、悪いことに関しては
叱られていたので、ひどい方向には行きませんでしたが、
それでも、親からの評価を受けないで育ったものですから、
他人の目を気にしない、のびのびした子供で、本当に自由を楽しんでいました。
朝、登校するときに、道草をしながら登校するのが好きだったんですけどね、
小学一年生の時に、通学路の途中で、学校の始業のチャイムが聞こえます。
その時点で遅刻なわけです。やべー、とも思わず、
「ははは。チャイムなっちゃった!いいや、別に。どうせ遅刻だから、
同じ遅刻ならもっと遊んでからゆっくり登校しよーーーっと♪」と、
言いながら、朝からお店で、買い食いして登校するような小学一年生でした。
ま、朝から子供にお菓子売るお店もお店だと思うのですが、
田舎なものですから、それもまた寛容だったのです。
我ながら今想うと、胆(キモ)の座った子供だな・・・
子供の頃の自分、うらやましー性格だな、と思うのです。
今は、その時の他の人の評価を全く気にしない、
のびのびした性格に大分戻れたんですけどね。
今は、他人の目を気にしなくなりました。
こうして、ブログでも多くの人の目に留まるようになってから、
批判もいじわるコメントも時々入るのですが、そうした人からの
評価も気になりません。そう思いたい人がいる、人を評価したがる人もいる、
というのを理解できるし、他の人の脳内地図を受け入れられるのです。
ま、個人的に「は?バカか?」とかも思うこともありますが、
いちいち、それを他の人に発散もしないですみます。
じゃあ、過去の自分、そう、人の目を気にして他者評価が気になり、
自己評価が低くなるようになったのって、いつの頃からなんだろう?と
振り返ってみたときにわかったのは、とあるコミュニティーに入ってからだ、
ということがわかりました。
愛のもとに集まった集団だとしても、結局人が集まるところには、
上に立つものが現れ、そして、そこでは人々のエゴが出没しだすのです。
マザーテレサが組織を作りたがらなかった理由がよくわかります。
よい行動をした人は、人々からの称賛という”評価”を得て、
”評価”を受ける人と、受けない人との差が出てくるのです。
「人生100%自己責任 強くしなやかに生きる」是非、これ読んで。
人には承認欲求がありますから、傍らで承認されている人を見ていますと、
承認されない者が価値のないようなそんな気持ちになるものです。
人と比べないことが一番ではあるのですが、私たちは、無意識レベルで、
他者との比較で生きています。
本当は、よい行いをしても、よい行いをしないでそのまま生きても、
褒められもしなければ、他者からの判断と評価がない状態なので、、
そこに良し悪しがなく、すごく気持ちが楽になるものです。
なので、今思えば、褒めてくれなかった親がいちいち私の行動に
”評価”を加えずに、どんな私をも、黙認という形での承認を
してくれていたんだな、ということがわかり、感謝だったな、と思うのです。
私の尊敬する、津留晃一さんの本の言葉の中に、こんなのを見つけました。
「子供にとっては、親から褒められるのは最大の喜びですから、
”こんな風にしたらまた褒めてくれるだろう”と思って徐々に褒められるための
行動をするようになります。評価を期待して何かをする子供になっていくのです」
とあるのを読んだときに、私は評価を受けないで育ったのだ!
何とありがたいことだろう!と思ったのです。
これを読んだ親御さん、子育てに関して、極端に走らないでくださいね。
「あら、じゃあ、褒めなきゃいいのね」ってわけでもないです。
バランスが必要。
と、独り言のような記事になりましたが、
大人になった私たちも、他の人からの評価を気にせずに、
伸び伸びと生きていきたいものですね。褒められないで育った私は、
他人様からの承認を喜びとして生きていないので、楽な生き方と言えるかもです。
週末楽しんでくださいねーー!予定のない人は、一か所だけ片づけしよー。
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西洋漢方という発想から生まれたスキンケア






















今日の記事はびっくりな内容でした。
他人を褒めなくていいんだ!?
え〜っ・・・世の中は承認欲求だけで動いていると思っていました。
人を心地よくさせようと思って、この手を使えばいいと思ってましたぁ。
評価しないことも大事なんですね。
目からウロコが落ちました。
私は両親からの、評価バチバチで育ちました。
だから、他人より褒められたい、
他人より抜きん出たいという気持ちが、
強かったのだと思います。
今もその傾向はありますが、
自分らしく生きていけばいいや〜と思えるようになりました。
それに、褒めてもらったからこそ、
ちゃんと自分には力があるのだと、
人と違ってもいいのだと思えるのです。
入口はそれぞれ。
そのあとどう生きるかは、やっぱり自分次第なんですね。
さあ、今日も笑顔でいってみよう!
今日の記事も、最近考えていることとリンクしてます!すごい!
私は子供のころからかわいいね、賢いね、いい子だねと言われて育ちました。ホントにバカかってくらいです(笑)でも自己評価はあまり高くありません。親の求めているレベルに達していない自分が全然ダメって思うようになってしまって(>_<)
それに、うちの親は私を私の友達と比較して誉めるもんだから(もちろん家族の中だけだけど)ずっと友達と比較したりする悪い癖がついてしまいました(-_-)
でも、家族が私を愛していてくれているのは間違いないし、こういう経験も乗り越えたら何か見えてくるんでしょうね(^_^)ワタナベさんが家族から誉められたいという気持ちを克服されたように。
今日も素敵な記事をありがとうございました(*^^*)力いっぱい応援しておきました!(笑)
ちょっと記事内容からはズレるのですが、私は子供たちを怒ってしまいがちです・・・。
多分おねしょが続いたらワタナベさんお母様のようには寛容になれません・・・。
でもよくよく考えてみたら、子供を褒めるのも怒るのも全部母親である「自分が心地良くあるために」というエゴが働いていると感じました。
こんな気付きを得られて、今日もワタナベさんのブログに感謝です。
ありがとうございます。
ワタナベさんにはそうでしたか。
でも、オリンピックでメダル獲れたアスリート達は、子供時代には上手に出来たときに親に褒められたのが励みと力になり、今の自分がある。
だから、達成できた!と親に感謝しているとか言ってました。
なので、親からだろうと誰からだろうと「評価」については、結局は当の本人の魂が成長の段階に達すれば、それ相当の自尊心を持てるようになるから誰の「評価」のせいではないのかも。
子供時代でも集団社会でも、その点では当人の問題であって、環境のせいではないってことですよね。
両極端を避けて・・・なんでもかんでも「ほどほどに」「バランスよく」!
ワタナベさんの場合は、今は、それで良かったと思うなら、結果がグーなんですね!(^^)
親も未熟です。
子供との相性もあり、褒めて育てて伸びる子供。厳しくして、「なにくそっ」と頑張る子供。何もしなくても、真っ直ぐに育つ子供。何をしても、でうしても曲がってしまう子供。
そう言うワタシも、誉められ事がありません。
母からは、感情のままに怒られてばかりいました。
何か言えば、怒られていたので、親の前では何も言わなくなりました。がある日、学校の三者面談で、先生が「学校では、よくしゃべってくれて明るいですよ」と言って下さったのに
学校と家での違いに、また怒られました(笑)
そりゃ、あんたのせいだろ!と、今ならツッコミを入れる所ですが、当時は若かったから何も言えませんでした。
やっぱり、自己評価 物凄く低かったです(*´∇`*)
「あんたなんか、結婚式に来てくれる友達なんかいるわけない」と子供の頃、言われたので、ずっと結婚式が恐怖でした。
でも、まぁ
虐待されていたわけでなく。親も未熟だったんだと、今ではそう思います。
どんな親であろうと、今の自分を、過去の親のせいにしてはいけませんよね。
今は、それがよくわかります。
人生全て自己責任。
どんな場所にいても、そこから何かを学びとるか、不平不満で過ごすか、自分で決めていく事ですね( ̄∀ ̄)
あ!そうそう
一度だけ、父に褒められた事がありました!
母がいないときに
カレーをつくったんです。その時に、
「美味しい」って…。
その一言で嬉しい私ったら、なんて幸せものでしょう( ̄∀ ̄)
ワタナベさん、今日もありがとうございました!
つい、長くなってしまってごめんなさい
また、明日も、楽しみにしています(^∀^)
そういえば、私もあまり褒められて育てられた覚えがありませんでした。
おそらく両親からすると褒めてはいたのかもしれませんが、少なくとも心地よくさせようという過剰なものではなかったです(^^;
大好きなピアノでさえ、うるさいからとか気分が悪いからという理由で制限されていました。
ですので数年前までは、「ステレオタイプの理想の家庭像を描いて買い与えたものだったのに、自分たちの都合が悪くなったから、すぐに手のひらを返したんだ」と思っていました。
ですが今では、褒めてもらえなかったからこそ、むしろ両親からの反対があったからこそ、純粋に「好き」という思いだけでピアノを続けて来れたんだという気がします。
もし将来、自分が子供を持つときが来るのなら、過剰にいい子いい子せずに、時折自然体でサラッと褒めていけたら素敵だなと思いました。
今日も気づきのある記事をありがとうございます^^
いい結果を残した時だけ誉めるのが、よくないのかと…
成果を評価するための誉められ方をしたなら、確かに他人と比べたり、変に競争心がでると思うし、それは、成果をあげた自分だけが価値があり、成果をだせなければ自分には価値がないと思うようになるからだし、
誉められないだけでなく、貶されて育ったら、一番自己評価が低いんだろうし
コメントの中の、親のせいにしてはいけない、というのも、学ばされました
最近、その両親が私を褒めます(滝汗)ちょっとこそばゆい感じですが、私が子供を褒めるのが下手なのも、こんなところから来ているのかもしれません。
自己肯定評価とは、親に褒められてつくものでもなく、自分が何度も挫折を味わって、そこから何度も這い上がる力から、与えられるものでもあると、最近とみにそう感じています。
誤ったことや門限などは厳しかったのですが、とにかく悪いこと以外は褒めてくれました。
そのせいかものすごく自分に自信があります。
自信と言っても、特に何があるわけでもないけど、自分は無条件ひ愛されてて、愛されるためにはあれをしなくてはいけない、これをしなくてはいけない、とか全く思わないことです。
姉妹揃ってそうです。学生の頃、友人が彼に嫌われるかも、とか友達に嫌われるかも、とか真剣に悩んで嫌われないために何かをやってることがすごく謎でした。
幼馴染は同じような子が多かったので、そんな悩みをかかえてる人は少なかったと思います。
初めて褒められずに育った人が難しいと思ったのは今の主人です。
とにかく自己評価が低くいつも愛情に不安を感じてるように思います。
読んでて??となったのは、
おねしょや物を壊すことで怒られなかったとありますが、どちらもわざとやったことではないのに怒られる、という発想が私にはなかったです。
うちの母はそういう過失で怒ったことはないですし、おねしょをしたら「小さいうちは皆するんだから、いつか自然としなくものだから恥ずかしがることじゃない」とか「形あるものはいつか壊れるんだから、怪我しなかったらそれでいいのよ」という人で、そういうことで怒らないでいてくれたという発想もないです。
本来怒られる必要性のないことで、怒らないでいてくれた、という発想になるのがすごく不思議で・・・。